「わからない」ときどうするか?


「まず強調しておきたいのは、
      わからなくてもおどろくな
ということである。(中略)誰でも他人が書いたまじめな話など、読みにくくてわかりにくいものなのだ。そして、まるでわからないようなときは、かまわずさきに進むことをおすすめしたい。また、気になるようなことがあってわかった気になれないときも、その疑問をなるべくはっきりいいあらわす程度で満足して、ムリにその場で解決しようとせず、前進した方がよい。」(野崎昭弘「数学的センス」(日本評論社)1987年、56〜57ページ)


新しく教わった概念がすぐに「わかる」のはその分野の天才だけである。
 すぐに理解できることは、「すでにほとんど理解していた」ことであり、ちっとも新しいことではない。それがわかったとしても、決して「新しいことを学んだ」ことにはならない。
 大学にはこれまで身についていない「新しいこと」「知らなかったこと」を学びに来たのだから、すぐにはわからないという状況に陥るのは当然である。わからないから「勉強する」必要があり、すぐに理解できないことが理解できるようになることに価値がある。

時間をかけなければわかるようにならない。
 何よりも大事なのは「わからない点、疑問な点を具体化する」ことである。これには、次の4つのことに時間を十分にかけるのが効果的である。
 読む:有機化学ならマクマリーその他の参考書の該当個所を繰り返し読む。
 考える:読んだ内容がどういうことなのか、問題の答えはこうだろうか、など想像力を駆使して考える。
 書く:自分で読んだ内容、考えた内容、問題の答えを、自分の手で図や式や言葉にする。
 話し合う:同じ疑問を共有する者どうしで、ああだろうかこうだろうかと話し合う。互いに自分や相手の話の中の不明の点、疑問のある点を指摘し合う。教え合うのではない。お互いわからないという前提であれば、いうことに疑義をさしはさむ(はさまれる)ことに抵抗はないだろう。これにより、自分の不足の部分、相手の不足の部分が見えてくる。
 一つの問題についてこれだけのことに1時間も時間をかければ、少なくとも疑問点を具体的にいいあらわすことができるようになるだろう。ここまできたら、その疑問点を本や先輩や先生なりから求めればいい。

わからないことは問題ではない。
 問題はわからないままで平気でいることである。「わからないのに何もしないこと」「わからないといって投げ出すこと」(「わからないのは○○が悪い」に至っては論外)である。
 十分に時間をかけて努力した上で、頭の中で「わからない」というラベルをつけてとりあえず棚上げにして、そのまま先に進むのは、「何もしない」こととも「投げ出すこと」とも違う。

わかるのは自分である。
 誰か他人が「わからせてくれる」ことを期待してはいけない。わかるのは自分の中での営みである。教員も含めて、他人はあなたが「わかる」のを手助けしてくれるかも知れないが、「わからせる」ことはできない。
 大学は学生に何がわかるべきかを発見させ、わかる機会を提供し、どの程度わかったかを評価しようとする。与えれた機会をどのように活用するかは学生の問題である。


「学問に近道なし。」時間をかけなければ新しいものは何も身につかない。しかし、やみくもに時間をかければいいわけではない。遠回りしすぎないような創意工夫を忘れてはならない。


(C)1998, Masato M. ITO