199X年ケム博士の一日

          伊藤眞人・赤木 雄
          化学同人Internet WG

 1月のある寒い朝、研究室にやってきたケム博士は、いつものように机の脇のスイッチを入れた。机の奥にある壁掛け型ディスプレイが明るくなった。M社製の化学PCが、小さなうなりを上げて動き始めた。システムの状態を一通りチェックした結果を表示した後、化学PCは自動的にLANを通じてメイルボックスをのぞきに行った。博士は次々と流れる画面には目もくれずに、流しの傍らでコーヒーメーカーをセットしている。

一日の始まりは電子メイルから

 「ヤギさんの手紙」の短いメロディが流れた。化学PCが新着の電子メイルを取ってきた合図である。ケム博士は横目で画面をチラリと見た。「ふむ、特にトラブルはないようだな。」と満足そうに心の中で呟く。画面には、半分以上を占める大きさのウインドウが開き、新着メイルの一覧を表示している。

 やがて、入れたてのコーヒーを手にして博士が机に戻った頃には、自動的に起動したスケジューラが、今日の日程と一週間分の予定表をそれぞれ別のウインドウに表示していた。今日は、11時半より大学院生と打ち合せ、3時より部門会議である。ここしばらくは、特に締切の迫った仕事はない。こうしてコーヒーを飲みながら新着のメイルに目を通し、必要に応じて返事を書くことからケム博士の一日が始まる。

 最初の2、3通は題名を見ただけで、「ダイレクトメールか」と小さくつぶやいて、中身を見もせずにDMという名前のついた書簡箱に移した。あとは、実験結果の整理が済んだらしい大学院生から一通、別の建物の同僚から一通と事務課から二通、インドに住む共同研究者から一通、その他が二通・・・。

 博士はまず大学院生からのメイルを開いた。実験結果とそれに対する彼なりの解釈が記されていて、反応条件と生成物と収率をまとめた表とNMRスペクトルのファイルの所在が記されていた。スペクトルには予想通りのシグナルが現れていた。「詳しいことは打ち合わせの時に聞けばいいや。」博士はメイルやスペクトルの表示されているウインドウを開いたままで、次のメイルを開いた。

 同僚からのメイルは午後の会議に関するものだった。末尾は「詳細は私の資料ファイルを参照して下さい」で結ばれていた。「ようやく彼も流儀がわかってきたようだ。」ケム博士は独りつぶやいた。会議の席上で配られる資料の内容を一人一人に添付資料として送られたのでは資源の無駄遣いである。予め見たい人は資料ファイルをFTPで取ってくればいいのだから。ケム博士はこのメイルを書簡箱にしまった。

海外の研究者との共同研究も日常的に

 インドの共同研究者からのメイルの主な内容は「最近合成した新化合物のスペクトルデータを登録した。そちらが面白がりそうなデータのような気がするのでのぞいてほしい」という内容だった。2年前、彼のグループが作った「分子モデルで作った化合物の3DNMRシグナルを予測する」ソフトの初版のささいなバグを、研究室の学生がたまたま見つけ、電子メイルで指摘したのがきっかけで知り合った。調べてみると、似たような化合物の違った側面に関心を持っていることがわかったことから意気投合し、互いに合成したサンプルをやり取りするなどの共同研究を始めたいきさつがある。共著の論文もいくつか書いた。最初は電子メイルで原稿をやりとりしていたが、やがてファイルを共有して交互に改訂するようになった。

 博士はすぐにFTPを立ち上げ、スペクトルを共有している彼のFTPサイトに接続し、指定されたファイルを手に入れて研究室の共有ディレクトリに移した。サンプルをFTPで送れるともっといいのだが・・・。

インターネット情報の検索

 スペクトルをのぞきたい誘惑をこらえて次のメイルを読もうとすると電話が鳴った。相手は先輩のS先生だった。「実はyahoo.seaという化学PCソフトがほしくて、秘書にgopherで探させたんだけどなかなか見つからないんで、君にコツを教えてもらおうと思って..」コツも何もない。はじめて聞くソフトだったが、Anonymous FTPで公開されているのならgopherよりもarchieが速い。gopherに慣れていなければなおさらである。そう答えようとして、秘書が新米で確かまだarchieの使い方を教わっていないことを思い出した。「じゃあ、ちょっとarchieで調べてみますから。」「おおそうか、archieだったか。すまんすまん。」謝るべき相手はケム博士ではなく秘書である。調べてみると、すぐ見つかった。「じゃあ、アドレスをメイルしておきます。」メイルを送ってからよく見直してみると日本のCCSSJ(計算化学ソフトウエア学会)のサイト、目と鼻の先である。博士は思わず小さなため息をついた。

様変わりする国際会議

 読もうとしたメイルのウインドウを前面に戻す。二ヶ月後に広島で開かれる東アジア化学会議の最終サーキュラーである。参加者のメイリングリストを使ったのだろう。気候や服装、物価に関するおきまりの注意と、地図などの画像情報を公開しているwwwサーバのアドレスが書いてある。「カー・ナビゲータが普及した時代だから、ポケット端末のボイス機能で会場への案内をしてくれるナビゲータソフトができれば、はじめての土地や外国でも道に迷う心配はなくなるだろうな」と博士は思った。「実現は何年先かな。」さらに、「バンケットに関する公開アンケートをnewsで行っているのでぜひ回答するように」という。

 国際会議としては小さな部類なので、今回の実行委員会は、セッション毎に講演要旨を整理してwww公開すると共に、試験的にnewsサーバを用意し、プレコンフェレンスと称して参加者間の交流の場を提供している。出席予定者がメイリングリストに登録すると、パスワードが送られてきて発言できるようになる。

 いくつかのホットな内容の発表予告にはたくさんのコメントやコメントへのコメントがよせられ、活況を呈している。もっとも先日は「発表会場にwww接続したコンピュータと大型スクリーンディスプレイを用意してくれないか。自分の研究室の計算機に置いた発表資料を直接表示して発表したい。」という要望がとび出して来て、事務局が対応に苦労していた。コンピュータ関係の学会では2、3年前から国内でも常識らしいし、要望を出した本人によれば、昨年末に米国で行われた計算化学関係の国際会議では、ほとんどがこの方法で発表していたという。学会に手ぶらで行く時代がもうすぐそこまで来ている。

論文の投稿も電子メイルで

 次のメイルは、英国の論文誌の編集委員会から、電子メイルで投稿した論文原稿の受理通知だった。投稿した翌日には受理通知が来るのだから早いものである。当日にならないのは、受理したファイルを仮想印刷処理にかけて、投稿ガイドラインに対する違反をチェックし、リストアップするからだという。違反があっても審査に影響するわけではないが、最終稿で違反があると一ヶ所いくらの修正料を取られる。原稿を手直しする際にはチェックが甘くなるのか、訂正稿の方がかえって違反が多いらしい。もっとも専用のドキュメントチェッカーが開発中だというから、これも今のうちだけだろう。

 受理通知には「審査済み原稿を、印刷に先立ってInternetで公開閲覧に供する」ことについて賛否を問うアンケートが添付されていた。数学や理論物理の学術雑誌の一部は、もう数年前からInternet刊行が始まっている。化学ではまだだが、そのうちにInternetでの公開のほうが正式になって印刷物は姿を消し、論文誌はライブラリ用に年一回、CD-ROMで送ってくるようになるだろう。

事務連絡や会議、書類も電子化されていく

 事務からのメイルの一通目は午後の会議の通知である。教員は全員コンピュータを持っており、スケジューラはネットワークで動作していて、事務で日時、場所および参加者を指定して登録すれば、参加者全員のスケジューラに予定が書き込まれることになっているから、わざわざ通知を送る必要はないはずである。しかし事務によると、通知書を日付順にワニ口クリップで止めておかないと必ず予定をすっぽかす先生がいらっしゃるので、面倒でもやめるわけにはいかないのだという。つい最近まではメイルを送ってもプリントしてくれないので、昔ながらの郵便受けにコピーを入れていたのが、ようやく多少改善されたとか。げに習慣とは恐ろしいものである。

 ついでに会議のほうもLANを使ってビデオ会議にすればいい。企業や研究所はもちろん、一部の大学でも新設や新築をきっかけにビデオシステムを充実させて実現しているらしい。もっとも、「都合が悪くなるとトラブルと称して接続を切ってしまう不心得者が出るのではないか」という意見もある。いつか会議で話題になったときに、一番それをやりそうな先生がこの意見を開陳したので、会議室中が大爆笑になった。

 二通目は、国際会議に出席するための出張関係の書類にハンコが一ヶ所抜けているので郵便受けに戻しておいたという内容である。3枚綴りの3枚目らしい。うっかりしていた。こういう書類もメイルと電子署名を使って印鑑なしで済ませないものか。一部の企業では導入されているらしいが、監督官庁が首をタテに振らないのか、まだまだ導入の気配もない。

NMRの予約を自室からリアルタイムで

 ノックの音がして、化学PCnoteをかかえた学生が入ってきた。もう打ち合わせの時間である。部屋の中央にある机にnoteを置くと、慣れた手つきでEthernetケーブルに接続し、立ちあげた。本題に入る前にインドから届いたデータのことを話すと、彼はすぐにnoteでスペクトルデータにアクセスし、内容を見た。「これに似た化合物なら、少し前に副生成物としてとれたことをお知らせしましたよ。1Dと2DならNMRデータもあります。」学生が手際よくキーをいじると、こんどは壁掛けディスプレイに彼が手に入れたサンプルのスペクトルが表示された。確かによく似た興味深い特徴的な構造が見られた。「どうしてそっちを進めてないんだ?」「無理ですよ。だって、この前先生が目的の生成物の方の実験を先に進めるようにとおっしゃったばかりでしょう。やっとそっちが一区切りついたばかりですから。時間がありませんよ。」確かに学生の言う通りである。「わかった。とにかく急いで3Dを取りたいので、NMRがいつ使えるか調べてくれ。」

 再び学生の指が動く。こんどは日付入りのスケジュール表がnoteに現れた。「あさっての夜からならできます。予約しときますね。」「頼むよ。」また学生の指が動く。予約表の空白に名前を書いて時間範囲を指定するだけで、NMR室の掲示板のスケジュール表が自動的に書き換えられるようになっている。ポケット端末を持っていれば、予約時間が近づいたり、前の人の測定が終わったら、学内のどこにいても合図を送ってもらうことができるので実に便利である。

新刊文献の検索をtelnetで自動的に

 化学PCから「おさるのかごや」のメロディが鳴った。博士がカレンダーを見ると、ちょうど新刊文献データベースが更新される日にあたっていた。telnet対応の検索ソフトが自動的に起動してデータベースに接続し、設定した検索コマンドに従って自動検索するように設定されている。メロディは検索ソフトが作業を終えたことを知らせる合図だ。

 検索結果は自動的に化学PCに保存されるので、あわてる必要はない。後で内容を見て、必要なものはコピーサービスを依頼すればいい。このデータベースサービスと提携している雑誌であれば、ページイメージを添付した電子メイルを刊行とほぼ同時に届けてくれる。おそらく今世紀中にはコピーサービスの収入が雑誌の購読料を上回るだろう。

実験室の装置の状態をモニターする

 ケム博士が学生との議論に戻るまもなく、甲高い警報のような音が化学PCからサイレンのように繰り返しなり始めた。博士ははっとして何事か言うと席を立ち、キーボードに向かった。学生はおっかなびっくり後に続く。画面には赤いサイレンが回転しながら点滅していた。実験室の装置のどれかに異常が生じた合図である。博士がマウスをクリックするとサイレンの絵と音は消え、異常が生じた機器を示すウインドウが開いた。wwwのビデオ機能が利用できれば装置の様子をここから見られるのだが、ビデオカメラ制御システムの購入予算がネックとなっていてケム博士の研究室ではまだ実現していない。ウインドウに表示された内容を見た博士は、「大変だ、オーガニック・シンセサイザーの温調がいかれた。」と言うと、学生と一緒に大慌てで部屋をとび出していった。

 無人になった部屋に光る大きなモニタ画面では、さっき開いたウインドウが次第に形を変え、やがてユーモラスな顔をした甲虫のアニメになって大きなあくびをしたのだが、ケム博士も学生も気づくよしもなかった・・・。

注意:この物語はフィクションであり、登場する人物、団体などは実在のものとは一切関係ありません。


化学同人Internet WG:赤木 雄(コーディネータ、関西ペイント)、堀居敏彦 (塩野義製薬)、豊田二郎(大阪大学理学部)、木本博喜(防衛大学校)、飯島邦男 (日本科学技術情報センター)、伊藤眞人(創価大学工学部)、化学同人編集部。執筆内容にはメンバーがメイリングリストで提供しあった情報や意見が反映されており、事実上全員の共作である。